setsの独り言

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独り言・ささやかな情報発信・考察・メッセージなどを綴って居ります・未熟なクリスチャン

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言葉と言葉

 言葉と言葉

 数日前の昼間に突如、何があった訳でもなく海が見たい!っとなり約17年振りになりますでしょうか、茨城県大洗町(おおあらいまち)にあります海岸を目指し車を走らせました。一人旅。十数年前の紙媒体の地図を見て行ったのですが大分道路が地図上の道とは変わりまして、少々迷いました。埼玉県春日部辺りで格安宿を予約し20時過ぎに宿泊。適当にやっている様に想われそうな、わたしの言動なのですが(昔は周囲から適当、急にまた想いついたか!ですとか、仕事は遊びじゃない!・・)そんなお言葉を吐き捨てられた事もありましたが、わたしの中では計画的に・しかし大胆に大木(たいぼく)を倒して道を作った様な気分で、いつも進んで来たつもりでした。成功か失敗かを想定したり不安になったりした事は、振り返りますと、実はあまりなかったのでした。自信があった訳でもありません。自信どころか、極端な照れ屋なもので、幼年期に色々あったからか分かりませんが、わたしの人柄を知る人は皆、こうゆう言動を知っては、わたしがしそうに無いと言われる事がありました。話が既に脱線気味です。わたしは緊張しやすい人間でした。つい昨年の入院前までは。お店の店員さんですら、「すみません」と言えば良いのか、「お忙しいところ失礼いたします」と言えば良いのか・・自宅で練習している時がありました。いい歳した、おっさんです。そんな人間なのですが、やると決めた事は突き進む性質だけがありました。自分を誇っているのではありません。だめだめな、おっさん、人生をお酒の失敗と怪我と病気で終わった様な人生でしたが、廃人になろうとも、チリ程の想いだけはありました。「このままは嫌だ・・このままならホームレスになって死ぬのか・・配信で〇〇さんが言っていたけど練炭を買っておいて、いつでも死ぬ準備だけしておくべきか・・」そんな事を想い生きた時期がありました。また、暗いお話にはならない様に致します。

 お話を戻します。宿を当日予約し、途中からGoogleマップのお世話になりながら宿に到着。

 色々持ち運びできるDVDプレイヤーとレンタルDVDや信仰本なども持っていったのですが、お風呂に入りコンビニおにぎりを食べてインターネット配信を拝聴させて頂いた後、力付きました。

 お話を一気に飛ばします。

 茨城県の山々に囲まれた道を走る事は、しょうしょう心臓に圧迫がありました。理由は地元のお方様はかなりスピードを飛ばすものですから。制限速度40キロなのですが、おおよそ70キロ前後位(目視・もくし・目で見た感じ)で走る車も多く、煽られて(あおられて)数キロ走り続けるのですから。ニュースでも問題になっております煽り運転ですが、これは煽っているお方様に聴いた証言の1つに「制限速度で走っていたらイライラするでしょ?」っという証言は直接聴かせて頂けました。大型自動車2種免許を取得し路線バスを運行していた、わたしですが煽り運転をされた時の対策は正直分かりません。ですが、個人的な本当、個人的な感覚ですが、わたしは煽られた時は後ろの車をルームミラーで見ません。理由は後ろを確認して運転をすると後ろの運転者から動揺しているのを悟られるからです。これは、わたしの個人的な感覚です。本当はルームミラーで車間距離を確認し、あまり危険でしたら先に行かせてしまった方が良いと想います。もう1つの対策は、わたしがクリスチャンだからでしょうか、聖書でもありますが主イエス・キリスト様がお弟子さんの足を洗う時あるのですが、これは神である主イエス・キリスト様が人間で自分の弟子の足を洗うという程に身を低くしされているのですから、わたしも身を誰よりも低く生きなければと想う様になっているからです。ただ、わたしは人間ですので完璧には出来ません。しかし、煽っている車の運転手様が誰であっても、どの様な雰囲気のお方様であっても、わたしより皆、上のお方様だと想う様になっています。聖霊様のガラテヤ 5:22~23に御霊(みたま)の実の綴りがあります。(御霊とは神様の霊)御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制とあります。クリスチャンとして聖霊様が居て下さるか居て下さらないかは、この御霊の実がなされているかどうかで分かるのではと牧師さんがおっしゃられて居りました。煽られた時、煽っている運転者様はわたしより上のお方様であり、わたしは聖霊様が居て下さるのだから、この場合は相手様に対して「寛容」「柔和」「自制」の態度でと聖霊様にお祈りさせて頂いて居ります。昔のわたしは、腹を立てていました。人間の力では我慢我慢我慢・・・いつか爆発してしまっていたと想います。今はそうゆう事がありません。嫌だなぁ・・っという気持ちは少しありますが、よっぽどの時は抜かせます。それが一番の対策では無いでしょうか。旅先で事故してしまうより、事件になるより、お互いの為に、わたしは一番低い位置にいる者なので、悔しくないのです。プライドは捨てました。1年4か月前に。

 脱線過多の綴り申し訳ありません。

 そうこうしていますと、霞ケ浦という大きな湖に近い事を知りまして、湖の上の橋を走らせました。

 一気にお話を飛ばします。

 大洗海岸は遠いので急遽変更し、鹿島海岸へ初めて付きました。想いの他、感嘆(かんたん・関心してほめる事の意)は無く、砂浜に車を止め、車から降りて海の方へ歩いていきました。まるで亀さんが産卵の為に海に引き込まれるが如く(ごとく)に似た感じでしょうか。

 海へ突如行った事に嘘はありません。しかし、走り始めて「海見れない人に海、見せたいな・・」っと漠然と想ったのでした。一番頭に浮かんだのは昔勤めていた施設やわたしが入院していたER病棟でした。3週間近く外の景色も見れず(一回だけ車椅子に乗せて頂き窓から少し拝見させて頂きました)外の空気は全く3週間吸えず、ベットと壁とカーテンに包まれた状態で24時間3週間居た事をうすぼんやり想っていたのでしょうか。具体的なイメージはなかったのですが、ただ「海みたい人いたら、喜ぶのではないだろうか・・」そんな、誰に向けたというよりも、そうゆう状況を想っていました。

 遠くにサーフィンをされている方々がおりました。右手を向きますと、見た目油田の煙突?っと想う様な人工建造物が数本立っておりました。油田ではないと想います。 

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 海の遠くを眺めていました。風が強かったです。海の水に触れたくなり、海まで近づきましたら、まるでドラマの様に靴に海水が襲ってきまして靴が一瞬で濡れてしまいました。おっさんが何をしているのでしょうか。

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 自宅から持ってきましたメモ紙に海の絵?を描いたつもりでした。下手くそなのですが、なんかドラマでありそうだなぁ~なんて想いながらも、絵を描く事は好きだったのですが高校で辞めて以来でした。インスタグラムでチョコチョコと唐突(とうとつ・急にの意味)に描き始まったのも最近の事です。理由や原因は、わたしにも分かりません。描く理由も目的もありません。昔描いていたから、まだ描けるのだろうか・・その程度の自分自身への問いかけみたいな・・試している様な・・「まだ描けるの?」っと。 

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 信仰本を1ページだけ読ませて頂き、砂浜に置かせて頂き想いました。

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「主イエス・キリスト様。海まで来ました。無事に届けて守って頂きありがとうございます。感謝致します。アーメン。」っと。わたしは祈りを口から発しません。以前は声を出していたのですが、人がいるところで主イエス・キリスト様にお話しするのは、流石に独り言と想われるにしても、色々想いまして、祈りやお話は全て心?の中でしています。

 

 スマートフォンで動画や写メを撮りためました。海の匂いや風や、実際に行けない・行きたくてもいけないであろう方々が「君は行けていいよね・・」っと卑屈にならないようにと、どうしたら、そう想わずに、「海・・か・・」ってすーっと心に入っていける方法は無いかと・・そればかり想っていました。しかし、方法は想いつきませんでした。画像や動画に少しコメント入れた事位しか出来ませんでした。

 この旅はわたしが楽しみ・3月から続く様々なスケジュールに疲弊しきっている時だから息抜きしたいから・・っという事もちょっぴりはありました。主イエス・キリスト様に誠実に居るならば、それはありました。ただわたしは、よっぽど一人。一人になると何を想うかと言いますと、わたしの場合、画像や動画を見て頂いて「は~なんか、ぼ~っとできたな・・これ」っていう様な写真や動画を撮りたくなるのでしょうか。良く・・分かりません。ただ、一つ言えるとしたら、わたしの為だけの旅ならば、何とも味気ないものなのでしょうか。息抜きにはなったとしても、なんとも空しい(むなしい)ものになるでしょう。それが無かったのは、口恥ずかしいのですが、見て頂いた人の気持ちがちょっぴりだけ、あ~~~なんか・・海か・・空か・・・なんて感じて頂けたらなっと・・想うだけでした。

 わたしが、こんな事出来ているのは主イエス・キリスト様に救って頂いたから・・。本来なら昨年の3月に死んでいたであろう人間ですので、なんと言いましょうか、感謝の気持ちや、わたしとは違っていても何かしらあるお方様の何かになったらと想ったのでした。言葉にすると行業しくて、本当はもっと透明で匂いも香りもないものなのですが、言葉にすると重くて恩着せがましい様な・・・想いがあればあるほど、本当はコメントなんて綴れないのが、わたしなのですが、無味無臭の想いや感覚を何としても言葉で表現できないか・・そんな想いだけがありまして、つい・・・だらだらと・・ツイッターのリプなどもそうなってしまう傾向があります。本当はあんまり良くないような・・気も致します。読まれたお方様に重い想いを投げかけてしまっている様な気がするからなのでした。いつも、綴った後に、あ・・・一言にしておけば良かった・・っと想ったりしてしまうのです。好かれるとか嫌われるとか関係なく、ただ相手に負担な気持ちにさせてしまったかなと・・想う事が多いです。

 昔のツイッターアカウントを見た時ありました。わたしの通知欄は「ありがとうございます」というお返事ばかりなのです。これは一見良い事に想われそうですが、相手様からしたら「ありがとう」の返事を強要をしている様な雰囲気すら感じた程に「ありがとうございます」が異常に多かったのでした。わたしは以前のツイッターアカウントを削除した時、2012年~2018年8月までの6年間を消しました。アカウントを消した理由はいくつかありました。信仰に生きる覚悟もその中にありました。また、ツイッターというのは一回フォローフォロワーの関係になりますと、よっぽどでない限り解除されません。時にフォローを外される事はありました。そうゆう時はわたしが高ぶっている時や傲慢になっている時が殆どでした。「ありがとう」のお返事をさせてしまうようなリプライをし続けている自分に嫌気がさしたのも理由の一つでした。信仰が無い時、自分自身が偽善者に想えたからでした。わたしの中では本心なのですが、何か偽善者にみえてしまって・・昔昔、ある人に「偽紳士(にせしんし)」っとあだ名をつけられた時がありました。わたしには、このあだ名の真意が理解できませんでした。ただ、わたしにとって良いと想う事が、相手にとって良い事だとは限らない・むしろ違う事が多いからなのでしょうか。ツイッターのフォローを自分からは滅多にしない理由は、こうゆう過去の想いがあるからなのでした。また、ツイッターの関係でない方が良いような感覚もある時が多いからなのでした。

 追記・・ありがとうと言うお返事は本来、とても素晴らしいお言葉だと想います。ただ、わたしが以前のツイッターアカウントに置いて、わたしがわたしに感じた事というだけです。これを読んで頂いたお方様が「ありがとう」は良くないと想わないで頂けたらと想います。わたしは少々、お節介だったり、お節介が過ぎて上から目線なコメントや文章が過去は多かったので悔い改めていました。上から目線のつもりは全く無かったのですが、過去のツイッターSNSでは、タイムラインを考えず自分勝手にユーチューブ音楽をアップし続けたり、自分の強烈な自分で考えた様な格言みたいな事を綴っており、それはツイッターのフォロワー様からは気持ちの良いものでは無かったはずです。当時は分からなかったのですが、感じた事はちょくちょくありました。。そうゆう意味で、わたしには「ありがとう」っと言って頂ける程の人間性が無かった事における、わたしに対する戒め(いましめ)の意味で綴らせて頂きました。あくまでも、わたし個人の悪しき問題からのお話でした。

 snsの限界。でしょうか。インターネットでの言葉の綴りのやり取りの限界。想いをどれだけ長い文章でどれだけ想いを込めても、直接会って「伝える」事には叶わないのでしょうか。そんな想いに気づいたからなのでした。

  お話を一気に戻します。っと綴りましたが、ここまで何も考えずに文字を綴ってきましたので、もはや修正が効きません。

 御見苦しい綴りで恐縮ですが、独り言だと・・ まさに独り言なのでしょうか。

 そして、突然の終了です。貴重なお時間割いて、読んで頂き、お立ち寄りして頂く気になって頂けた事に感謝致します。ありがとうございます。

 失礼致します。

 by sets

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