setsの独り言

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独り言・ささやかな情報発信・考察・メッセージなどを綴って居ります・未熟なクリスチャン

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鏡の中に映る自分は何時(いつ)変わったのでしょうか

 鏡の中に映る自分は何時(いつ)変わったのでしょうか

 鏡を見ます。顔を洗う時・髭(ひげ)をそる時・何となくな時・・。生まれて今まで何回鏡を見てきたのか分からない。

 毎日1回は見るであろう自分の顔なのだけど、いつ歳・・・とったんだろう。あまり深く考えたり、科学にその答えを求めようとまではしない。何となくふっと想っただけ。

 

 いつのまにか白髪のお爺ちゃん(おじいちゃん)に成っているなんて、浦島太郎の物語でしょうか。でも、鏡に映る自分は何時変わったのでしょうか。そんな事を想って居る今ならば、白髪のおじいちゃんにいつの間にか成って居たというのが、もしかしたら妥当なその時の感想なのではないだろうかと。

 今ですら、いつのまにか おっちゃんに成って居たのですから。

 わたしの場合、特に歳をとったと想う事が無く生きてきた。

 人生の生き方を誰かに教わって生きてきたという事もない。過去は学校の先生や時折、人生教訓本や偉人の言葉等はあった。それはそれで、その時は心にしみこむ言葉だった。そして、そうゆう事を否定もしてない。自由ですから。

 
 わたしの場合は、主イエス・キリスト様だった。聖書だった。そうゆう事になるのでしょうか。

 ただ、一点だけ過去のそれとは違う事は、わたしのリアル周囲で良い意味での影響は計りしれないと言う事でした。わたしとわたしの関係している方々が良いのならば、ブログで綴る事はしないだろうかと。美味しい食べ物を食べたら、教えたくなりますでしょうか。似てませんが、例えるならばそうゆう雰囲気も含まれますが、福音「(キリストによって人類が救われるという)キリストの教え。」宣教はクリスチャンの使命とも。だからしているのではありません。心の底から分かって欲しい・・知って欲しい・・気づいて欲しい・・そんな想いは実は本音なのです。

 

 クリスチャンにさせて頂く前にしょっちゅう想って居た事、気が付くと溜め息(ためいき)にも似た心の嘆きとも・・それは「惰性で生きたくない・・」こればかりだった。

 このままインターネットで何かを適当に見て、気が変わったら外出て適当に車か何かで行ったり、つまらなかったら映画でも見てみたり・・TVでもたまにはつけてみるかと・・ん~・・事件ばかり・・これが何年も続いて歳とって・・・何が楽しいのだろうか・・誰かの為にと想って言動してみたりしては想いの他伝わらないもどかしさや無力感だったり、その割にやる事・やるべき事・将来の不安やれっきとしてリアルにある問題への対処云々(うんぬん)・・そうしているうちに・・お酒に手が伸びる日々でした。

 今想い返せば、たった1年4か月前のお話。

 今、想う事は明日の事を煩わない(わずらわない・マタイによる福音書6章34節・だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。)事でしょうか。祈っていれば何もしないでも全てが解決するとは想っていません。しかし、わたしの場合は祈りが1番にする事なのです。不思議な力ともなんとも言えませんし日本でいうイメージのスピリチュアルではなく、信仰的に生き信仰的な言動を心がけるとも、完璧ではないので悔い改めの日々の中でわたしがわたしだけの悟りに寄り頼む事からの失敗の過去の人生から、わたしを救い導いてくださっている御言葉(みことば)。霊的な部分をわたしは重要にしています。ここらへんはクリスチャンの兄弟姉妹さんでも差があるのでしょうか。念の為、異端(いたん)とされる教派では御座いません。プロテスタントのクリスチャンです。

 明日の今頃何を想うのでしょうか。明日の事は分かりません。
 予定している事はあります。

 

 鏡の中に映る自分は何時変わったのでしょうか。外面はいつのまにかとしか・・・毎日見ているわたしですら日々の変化に気が付けないのですから。わたしだけでは無いと想われますが。そして、内面は1年4か月前に。年数をくっきり綴れる事はある意味クリスチャンの兄弟姉妹さんはあるのではないでしょうか。洗礼(せんれい)はそうゆう意味での大きな事なのでしょうか。

 
 月日が経ち、わたしの周囲は大きく変わってきました。おっちゃんですので歳相応なのでしょうか。見ているものや関わっていたお方様も変わりました。全員ではありませんし全部の事が変わったわけではありませんが8割程度は変わりました。1割位はかろうじてと言うのでしょうか、そうゆう表現の仕方が良いのか悪いのか分かりませんが実際そんな感じなのです。

 人間としてたかだか80年前後を生きられるとしたら、何がわたしに出来るのでしょうか。そして、わたしがわたしの人生を通じて「変わらないもの」を昔昔より探していたのは事実であり、それが「主イエス・キリスト様」だったのでした。変わらない人・神。人間は人の言動や環境や様々な要因等で変わります。そして見ているものも、ずっと見続けていられると想っていても、いつか終わります。変わらないものを見て知って一喜一憂・ドキドキ・ワクワクの様な恋愛の様なそのような心の動きはありません。

 わたしが人間の肉体から別のものになれた時を夢見てみるのは、内的な深い深い部分で感じる、まるで深海に居る様な喜びなのでしょうか。無音に近くシーーーーンっと言う音の表現が合う内的深海に居る平安にして自由。
 わたしの喜びとはそうゆう感じです。

 

 少し意味が分からない綴りやもしれませんが、お立ち寄りして頂き感謝致します。

 読者登録して頂いたお方様ありがとうございます。

 ありがとうございました。

 by sets

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